あなたの個性に価値はありません

個性が善で、その他大勢が悪

ここ最近「個性を伸ばす」「個性を尊重する」という言葉が社会に溢れ返っています。
“多様性至上主義”も後押しして、ますます「個性=善」という風潮が加速しています。
同時に「その他大勢として生きる=悪」の様な“没個性”を否定する社会になりつつあります。

「世界に一つだけの花」が悪いのか
「みんなちがって、みんないい」が悪いのか
「雑草という草はない」が悪いのか…

今回はこの「個性」について考えていきます。

天然個性と人工個性

まず「個性」というのは大きく“天然個性”“人工個性”に分けることができます。
天然個性とは、「個性」なんて言葉を意識しなくても勝手に個人特有の特徴になるもの。
周りが勝手にその人の“個性”だと評価し、本人は無自覚な状態であることが多いものです。

例えば、

  • 走るのが速くて陸上競技の全国大会で入賞する
  • 勉強が得意で全国模試で一桁の順位になる
  • 円周率の暗唱を○○桁までできる
  • プログラムが得意で11歳でゲームを作成した など

つまり、好きなもの・得意なものを追及した結果、周りから「個性」とされるものです。
それが“天然個性”です。

次に人工個性。
人工個性とは、客観的にみて個性がないので、自分でつくり出した個性のことです。
「個性=善」という社会に責任があるのか、単純に自己顕示欲が強いのか…

例えば、

  • 昔クラスに1人はいた、自称霊感の強い女
  • まだまだマイノリティであるLGB(T)Qであることを過剰にアピールする人
  • ○○は好きだけど△△は嫌いと自分の好悪をひたすらアウトプットする人
  • フェミニストやオリンピック中止派だとアピールする人 など

天然個性を持っておらず、かといって、天然個性を獲得する努力もできない。
そんな人達が個性を求めてつくり出す。それが“人工個性”です。

絶対個性と相対個性

さらに別の角度から個性を分けてみます。
それは“絶対個性”“相対個性”です。

まずは絶対個性。
上に書いた例でいえば、
円周率の暗唱や若いうちにプログラミングを習得するような、いわゆる“こだわり”が個性になる人たち。
フェミやオリンピック中止派や○○推しをアピールし続けるような、“属性”や“所属”を個性と置き換える人たち。
つまり絶対個性とは、他人と比較しなくても個性になるもののことです。

次に相対個性。
上の例でいえば、
全国大会で○○入賞や模試で○位、偏差値○○のような、いわゆる“順位”や“階級”が個性になる人たち。
自称霊感強い女や、性的少数派のLGB(T)Qであるとアピールし続ける“自称マイノリティ”を個性にする人たち。
つまり相対個性とは、他人と比較して初めて個性となるもののことです。

以上の「天然個性と人工個性」「絶対個性と相対個性」を1つの図にまとめます。

こだわりと順位だけが社会に価値を生み出す

ここで1つの問題が出てきます。それは人口比率です。
上の図からは、それぞれの4つに属する人が同じ比率で存在するように見えます。
しかし、実際はその人口比率は大きく偏ります。
簡単に図に表してみます。

このような形に人口比率は偏り、人数が多い順に【属性>自称マイノリティ>こだわり>順位】になります。

そして、この4つの個性は価値を生み出すものと、無価値で無意味なものに分けることができます。

個性づくりのための“属性”ではなく、個人が追及する“こだわり”が社会に価値を生み出し、
被害者面をするための“自称マイノリティ”ではなく、努力して勝ち取った“順位”が社会に価値を生み出します。
今、社会にある「価値を提供してくれているモノ」の出発点を考えれば明らかです。
誰かの「自称」では無く、何かを追及した結果や努力して勝ち取った成果が社会に価値をもたらすのです。

つまり「個性を伸ばす」「個性を尊重する」というのは「こだわりを伸ばす」「順位を尊重する」という意味で使われるべきで、
「属性や自称マイノリティを個性として承認する」という意味で使われるべきでは無いのです。

図で表すと、【個性の尊重=横軸を押し下げる力】となります。

しかし、まだまだ天然個性は希少で、多くの人は何の努力も必要としない人工個性に依存しています。
まず、人工個性は「個性のフリをする、ただの居場所」であることを認めることが先決です。
多くの人が自分の個性としている“属性”や“自称マイノリティ”では社会に何も価値を提供できないのですから。
もしそれが嫌ならば、努力をして社会に価値を提供できる“こだわり”や“順位”を身に付けましょう。

禾歳タタ

1件のコメント

  1. 筆者は個性の意味を誤解しています。個性とはキャラ立ちしているという意味ではありません。

    個性を理解するには没個性が何かを考えるとわかりやすいです。没個性とは自分を外部規範という鋳型に押し込んだ場合のことを言い、それ以外はすべて「個性」です。そしてその無数の「個性」の重なりが「その人の個性」です。

    つまり「個性は希少」ではありません。もちろん商業的価値があるとも限りません(たいていの場合はないでしょう)。「個性」そのもののは、そんな誰にでもある凡庸でありふれたものです。しかし無数の「個性」(=人とのズレ)が折り重なって「その人の個性」となるように、他人と同じにはなりません。そんな「その人の個性」をまずは自分が認めて大切にしようというのが、記事の冒頭で「個性=善」の例証として挙がっているメッセージの意味です。

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